美を紡ぐ 日本美術の名品
もう会期が終わっているので、今更ご報告するのもどうかとは思いましたが、東京国立博物館で行われていた「美を紡ぐ 日本の名品 —雪舟、永徳から光琳、北斎まで—」のレポートです。なんとか滑り込みで閉幕ギリギリで行ったのですが、思った以上の見応えでとても良かったので、ご報告です。
結論から言うと、とても素晴らしかった。東寺展の行列に圧倒されて、若干影を潜めるようにやっていた感があったのですが(実際、駅の構内のチケット売り場で東博の、と行った時点で、係りの人の手は東寺展のチケットを持っていました)、あなどるなかれ、こちらもよくぞ出してくれました、という作品がたくさんあり、文化庁やるなあ、宮内庁三の丸尚蔵館ありがとう、と何度もあちこちでつぶやいてしまうような、そんな展示会でした。
まずは入ってすぐに、狩野永徳の作品。
そして私の目を釘付けにしたのは、葛飾北斎筆「西瓜図」です。もともと北斎の肉筆画はとてもすきなのですが、これもまたなんとも言えない迫力で、ちょっとしばらく動けなくなりました。この西瓜の上にかぶせている紙に滲み出ているこの果汁の生々しさ。命を絶たれた動物の血とも思えるような不気味さすら滲んでいます。そのみずみずしさと呼応するような、干された皮の少しずつ生命感を失われていく様。なんとも不思議な作品です。もう老人の域に入っていたであろう北斎、生き死にについて何か思うところがあったのでしょう。
他にも雪舟の秋冬山水図、若冲自画自刻の版画、久隅守景の「納涼図屏風」、横山大観の「龍蛟躍四溟」、与謝蕪村の掛け軸など、ああ見られて良かったなあと言う作品だらけ。
満足度の高い展示会でしたので、オススメでしたが、ご報告が遅くなって参考にならずに申し訳ないです。せっかく国内で保管されているので、また公開される機会が近くあることを願ってやみません。美術品を文化として継承していくのはもちろんですが、社会としての位置付けを公共性を考えて、皆で、皆の財産として守っていきたいですね。
はじめまして、ルート・ブリュック
東京ステーションギャラリーで開催されている『ルート・ブリュック 蝶の軌跡』 という展覧会に行ってきました。
まさしく、はじめまして のルート・ブリュック。はじめましての東京ステーションギャラリー。
私は、あまり蝶は好きではないし、ルート・ブリュックさんは初耳の方だし、正直どうしようかなと思っていた展覧会でした。でも、行って大正解。あっという間に彼女の魅力に引き込まれてしまいました。
何かに導かれるように知らない森に迷い込んで、いつのまにか自分だけの秘密の少しひらけた丘に出たような、そんな感覚でした。
彼女は母子を描いた陶板も作っていますが、どれもすごく不思議な印象でした。とにかくお母さんの目が虚ろなんです。ルートの娘さんであるマーリア・ヴィルカラさんは、
”彼女のが生み出す母親像は、ある強靭さをもっている。なんとなくこんな風に囁いているように見える。
『私は同時にもうひとつの別の場所にいるの』と。
もちろんそれは物理的にではなく、頭の中でだけれど。
母親というものは、自分の思いや夢のなかへとエスケープすることがある。時には自分の仕事のなかへと。”
と書いています。
とても理解できる気がします。私も子供とべったりの時期は、よく頭の中だけ、いろんな場所にトリップさせていました。逆にそれが、自分を自分として保つために必要だったと思います。子供と一緒に過ごすことは、どうしても子供の時間、子供の目線を通して、いわゆる子供ドリブンな世界にならざるを得ない。でも、どんな人でも自分が支配する時間が全くないというのは、自分という人間性を保つのが難しくなります。だから、この目をしているんだ、このお母さんは。
個人的に一番惹かれたのは、『ジャイプル』と『色づいた太陽』。私も昔インドに行ったのですが、その時の空気をありありと感じました。むせかえるような熱気と湿気。混沌とした時間さえもわからなくなるようなインド特有の空気。もう二十年も前のその記憶がふっと現れてきました。写真を撮れないところにあったのが、残念です。
クリムト展(お土産編)
クリムト展(私がクリムトに惹かれる理由)
昨年から心待ちにしていた東京都美術館のクリムト展に行ってきました。
20歳くらいの頃に、初めてクリムトの絵を観てから大好きになり、その後なかなか目にする機会がなく、今回の展示をとても楽しみにしていました。
私はなぜ、クリムトに惹かれるのか。
一つは、死のにおいが漂っているからだと思います。
今回、たくさんのクリムト作品を一堂に観て感じたことは、通奏低音のように死の影がどの絵にも根底に流れているということでした。とてもかわいい、クリムトの姪の横顔『ヘレーネ・クリムトの肖像』(上の画像)にさえも、死のにおいを感じます。それは彼女の父の死のせいなのか、この若い美しさも永遠ではないということなのか、私はその両方なのではないかと思います。しかし、その死のにおいが一層彼女の儚げな美しさを引き立てているのです。
二つ目は、生命とくに生命を生み出す女性に対する畏敬の念が現れているからだと思います。
たまこの左側
うちの猫のたまこは、事故による怪我の影響で、左目の視力は全くなく、右目も正常範囲の3割くらいの視野で右下の方しか見えていない。
でも、たまこは多分みんなこんなもんだと思っていると思う。同居の猫やらインコやら犬やらいるけど、多分、視野についてお互いに話し合ったことは一度もないだろう。生後2ヶ月なるかならないかの時期にこの大怪我の状態で拾われて、生死の境をさまよったけど、きっとその頃の記憶もほとんどないだろう。確かめたことはないんだけど。物心(猫にそのようなものがあるとするならば)ついた頃から、ずっとこの視野で生きてきたのだ。
そして、我が家で一番偉そうなのも、このたまこ様である。同居の猫もたまこにちょっかいをだすことはほとんどなく一目置いている感じであり、我々人間にいたっては、たまこ様に完全に下々の者たちといった扱いを受けている。卑屈な感じも悲壮感もひとかけらさえない。
そう思うと、障害とか人間でいうところのものって一体なんなんだろう。他の同種の生き物と比べるから、出てくる考えなのだろうか。もし、人間が言葉というものをもっていなければ、こうやって自分の見ている世界と他の人の見ている世界を比べることもできないし、比べようという考えもでてこないということだろうか。
たまこにとって、左側の世界はどんな感じなんだろう。左目はとても美しくもう完璧といってもいい眼球を持っているのに、その綺麗な網膜にとどいた光は電気信号となっても受け取り手である脳には届かず、ブラックホールのような神経の障害部位に吸い込まれて消えてしまう。
でも、顔の左側の皮膚はしっかり触覚があり、左耳も聞こえている。目では見えない左側の世界。何かを感じ取って、ん?と顔を左に向けると、さっきまで見えなかったところが少し見えて、またその左側が見えない。猫じゃらしもあっという間に見えない世界に消えていく。
それがたまこの左側。